
労働者の日らしい、今日は。
だけど、サラリーマン時代に、
その恩恵を一度でも受けたことはない。
デモに参加したこともないし、
集会に参加したことも、一度もない。
労働組合もないような中小企業だったので、
それもそうか、と納得する。
学生時代のアルバイトで初めて給料をもらった時、
「あぁ、僕は『僕の時間』を切り売りしたんだ」
「あぁ、僕は『僕の労働力』を切り売りした」
と、実に哲学的な感傷にふけったものだ。
当時、ちょっと哲学的思索に凝っていたので、
余計に印象的に憶えている。
しかし、歳を経るに従って「僕の時間」
「僕の労働力」なんて考えなくなり、
労働の量と質よりも、対価として支払われる、
給料の額だけが、思考の対象になってしまう。
守るべき、養うべき家族などが出来ると
そうなってしまうのは仕方がないことだ。
今現在、労働の量と質、それに対する対価は
見合っているのだろうか。
「ワーキング・プア」と呼ばれる切実な現象、
それに対して企業は「CSR」という妙な責任を
果たそうとしている。
時代が流れて社会は変化してゆくが、
それでも「働く」ことの意義と価値は、
容易に変質していいのだろうか。
だけど、サラリーマン時代に、
その恩恵を一度でも受けたことはない。
デモに参加したこともないし、
集会に参加したことも、一度もない。
労働組合もないような中小企業だったので、
それもそうか、と納得する。
学生時代のアルバイトで初めて給料をもらった時、
「あぁ、僕は『僕の時間』を切り売りしたんだ」
「あぁ、僕は『僕の労働力』を切り売りした」
と、実に哲学的な感傷にふけったものだ。
当時、ちょっと哲学的思索に凝っていたので、
余計に印象的に憶えている。
しかし、歳を経るに従って「僕の時間」
「僕の労働力」なんて考えなくなり、
労働の量と質よりも、対価として支払われる、
給料の額だけが、思考の対象になってしまう。
守るべき、養うべき家族などが出来ると
そうなってしまうのは仕方がないことだ。
今現在、労働の量と質、それに対する対価は
見合っているのだろうか。
「ワーキング・プア」と呼ばれる切実な現象、
それに対して企業は「CSR」という妙な責任を
果たそうとしている。
時代が流れて社会は変化してゆくが、
それでも「働く」ことの意義と価値は、
容易に変質していいのだろうか。
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